夕焼けとさくらんぼと味噌ラーメンと

祖父母の家とお別れした話

おじいちゃんが亡くなって一年以上が経った。

 

おじいちゃんとの思い出、なんて考えるともう膨大すぎて、特におばあちゃんが介護が必要になってからの10数年は本当にいろんな時間を共にしたと自信を持って言える。

何度も一緒に散歩して、おじいちゃんの杖をつきながらもサクサク歩く姿にびっくりしたし、自販機で炭酸を買って一緒に飲んだり、みんなで桜を見に行ったり、真夏に草むしりしたりトマトを育てたり、マックを買ってったら美味しいと食べてくれたり、病院に付き添った帰り2人きりでティファに行ってハンバーグを食べたり(今考えるとおじいちゃんにはお店のライスなど固かっただろうな、でも文句ひとつ言わず美味しいって言って食べてくれてた)、階段しかないうちにも来てくれたこともあった。

お正月は手作りのお煮しめを作ってくれて、それは味がとてもしみていて里芋は綺麗に皮むきしてあって昆布はちゃんと結んであった。みんなでジェンガをやったら、おじいちゃんその時既に100歳近かったのにめちゃくちゃ上手ですごい盛り上がったな。

100歳のお誕生日には海鮮寄せ鍋を作ってあげて、とても美味しいと喜んでたくさん食べてくれて嬉しかった。その後はコロナがきてしまいあまり集まれなくなってしまったけど、毎年お誕生日にはケーキとワイシャツをあげた。服はいっぱいあるからいいんだと言いながら、数日に一回のペースで、あげたシャツを着てくれた。亡くなる数ヶ月前まで、外出しない日でもワイシャツとチノパンを着てたおじいちゃん。ダンボールゴミを捨てるのにも、きっちりスズランテープでまとめる几帳面なおじいちゃん。

 

お父さんは、義理の父親であるおじいちゃんのお葬式後の食事会で込み上げるように泣いた。お父さんのそんな姿を見るのは初めてだった。それまでは気丈に振る舞っていたのに。それを見ていたお母さんも私たちも泣かずにはいられなくて、ちょっとー!と少し笑いながらたくさん泣いた。

 

戦争に行った時の話も、聞かせてくれたおじいちゃん。

お葬式で親戚の方が話してくれたのだけど、終戦後、外から大きな声で「帰りました!」と聞こえ外に出るとボロボロの戦闘服で敬礼をしたおじいちゃんが立っていて、今でもその姿が鮮明に思い出せると。

山形から職を求めて上京した時は、前日から並んで電車の座席を取ったと言っていた。

船乗りとして公務員になったけど、最初は間借り、結婚してからもしばらくは6畳一間のワンルームで苦労続きで。だからきっと、定年退職金で自分の家を手に入れた時の安心感と嬉しさはひとしおだったと思う。

 

祖父が買った時は既に中古でさらにそこから40年以上住んだからもうあちこちが古くて、場所も今の私たちには少し不便で、だからこのまま宙ぶらりんにするよりは誰か必要としている人に住んでもらおうと売ることになった。

実際、祖父が亡くなってから家は仏壇だけ置いてあり誰も住んでおらず、お線香をあげに誰かが訪れるだけの場所になっていたので、私もそれはとても良いことだと思って大賛成した。

そして、個人ではないけど買ってくれる人が現れて、この度家を売り渡し、それに伴い現在の家屋は解体することになった。

家財等の回収業者が来てくれるまで、何度か家に足を運んで手元に持っておきたい品を探索した。少しの食器や着物、絵などはもらうことにした。押し入れを整理していると全く使っていない厚手の毛布やタオルがたくさん出てきて切なくなった。良いものは、いつかじゃなくて今、自分のために使うべきだと思った。

 

回収業者が来て、家具等を全て持って行ってくれた後の、がらんとした家にも2回行った。

1回目はサクッと見て回って、これで良いんだもう仕方ないしこれは良いことなんだとあえて感傷的にならないよう時間を過ごしたのだが、結局やっぱり何かモヤモヤして最後にもう一度行った。(しつこい)

そしたら両親も一緒に行くことになり、せっかくなら解体前にお手製のお祓いをしようと母が思いついてくれ、叔父も突然だったのだが来られてみんなで(妹誘えずごめんね)お酒とお米と塩を家中にまいた。壁紙や、祖父が破れた障子に簡易的に貼っていた(そしてそれは結局最後までそのままだった)ラベルなど、細かくたくさん写真を撮った。

 

翌週、晴れた週末に見に行くと家はもうすっかり解体され、ほとんど真っ新な土地になっていた。重機ってすごいな…。

清々しさと、寂しさと、目の前の光景がまだ信じられない夢のような気持ちが入り混じった。

本当に無くなっちゃったんだなぁ。

その日はとても暑くてカラッと晴れていて、それがまた私を不思議な気持ちにさせた。こんなに現実なのに、夢みたいだ。

工事現場をこっそり散策して、わずかに残っていた玄関の壁のタイルのかけらを拾った。そんな不審行為をしていたら、裏の家の年配の男性に、ここを購入されたんですか、と声をかけられた。ここの家の人の孫なんです、と言うと、あぁそうですか、〇〇さんの、と言って、少し置いてからあっという間でしたねぇと少し寂しそうに微笑んでくれた。一度も話したことない方だったのに、その言葉と表情になぜか突然涙が出そうになったけど、ぐっとこらえて本当!あっという間!でもお騒がせしました!と明るく言った。

 

その晩、急に寂しくなってしまって少し泣いた。と同時に、目の前の事柄にちゃんと向き合って、やるべきことをできた、きちんと丁寧に滞りなく完結させることができた自分の家族を誇りに思った。いつかは終わる。変わらないものなんてない。何回も聞いてきたし思ってきたこんな言葉を心から実感した。この場所には、風がちゃんと吹き抜けていると感じた。晴天の5月の気候に涙が混じって、切ないのに清々しかった。

 

そして、悲しい、寂しい、切ないなどのネガティブな感情は決して抑える必要はないものだとも思った。

私はネガティブな感情が多分怖い。悲しさを受け入れることを許すと、自分がそれに浸かってしまって簡単に抜け出せなくなるんじゃないかと怖いのだ。加えて、それを誰かに知られて、気遣ってもらうのも申し訳なく感じる。だから自分の中でそれらが生じると早めに消化しようと努めるし、誰かがそういう感情に苛まれていると解決してあげたいと強く思ってしまう。

でも、本当はどんな感情でも受け入れていいんだよね。悲しいのに悲しくないと心を閉ざしたり、忘れようとしたり、無理やり切り替えようとするのって結構不自然だ。だったら、悲しい、寂しい、切ないとちゃんと思いたい。感情と行動がイコールである必要もない。自分の感情は私の自由だし、誰かが悲しいと思うのもその人の自由だ。

悲しい、切ないとしっかり思って、自分の心の動きをちゃんと見つめて、然るべき時が来たらまた歩き出せばいい。

だから、私は今もふいに寂しく切ない気持ちになる。そりゃそうだ、あんなに思い出の詰まったおじいちゃんおばあちゃんの家が無くなっちゃったんだもん!悲しくないわけがない。

 

あぁ、今の気持ちをちゃんと書いておけて良かった!どうか、あの場所に素敵な方が住んでくれますように。

そして、おじいちゃんおばあちゃんの家、今まで本当にありがとう!!!

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