優しさについて考えた話
「優しさ」って何だろうか?
最近ずっと考えているこの件。
私は多分優しい。人からそう言われることも多いし、自分自身でそう思うこともしばしばある。
でも、私の優しさはいわゆる「お節介」「心配性」と言い換えることもでき、時に支配的ニュアンスを含んでいるなぁと思うこともある。また、「良く思われたい」というパターンの時も多々あり、それに気付いたときは我ながらげんなりする。
「お節介」は真の優しさでなはい?
優しさゆえ、相手を放っておいたり、明らかな正解である助言をしない人もいる。
若い頃はそれが全く分からず深入りしない甘えではとすら思っていたけど、最近はその難しさがよく分かる。
相手を信じ、尊重し、任せること。その不確かさと怖さ。明らかな助けを与えるより何倍も疲れるし想像力と忍耐力が必要だ。
でも、可能であれば、その人が自分自身でその場所に辿り着くに越したことはないもんね。だから一見遠回りで冷たいようでも、干渉しすぎないで見守る。
やりすぎたお節介は時に相手の自信を奪ったり、成長の機会を失わせることもあるから。それにどんな関係性だってやはり他人は他人、相手が本当に望むものなんて分からない。
果たして相手はその善意を望んでいたのか?自己満足になってない?相手が気を遣って感謝してくれてるんだったらどうしよう?
正解なんてない、だからこそ根っこの部分の感情を信じたい
でもね、分かってはいるけど、やっぱりこのタイプの優しさを差し出すの、やめられないんだよねぇ!!!!
お節介な優しさを差し出す、というか押し付ける度に押し寄せる自問と後悔。感謝されたいというささやかだけどクソデカな期待。そして相手の反応によってジェットコースター並に上下する感情。
だったらやんなきゃいいじゃんか!と何度思っただろうか。でも、困ってる人や助けを求めている人がいたらさ、手出さないわけにいかないんだよ。
最終的にどんだけいろんな邪念にまみれても、一番最初のここの部分だけは、いつも純粋な気持ちなの。それは本当。
でも、じゃあそれだけで十分じゃない?
本当の「優しさ」なんて正解はない。それは相手によって違うし、場面によっても全然違う。お節介が負担になるように、尊重したつもりが孤立を感じさせているかもしれない。
だからこそ、最初の純粋な気持ちが大事なんだと思う。「力になりたい、元気になってほしい、大丈夫?」って、そうだよね、その愛情こそが「優しさ」だよね。
未熟な私たちは優しさが膨張して暴走してしまうこともあるし(これは壮大な体験談があってだな…また改めて書きたい)、深入りの面倒さを「任せる」という言葉で正当化することだってある。うまくできなくてごめんっていつも思ってるし、相手のことが一番だと思ってても自分のことも大切で。
結局私は、今後もお節介をし続けてしまうと思う。でも、お節介に助けられる人もいるだろうし、悪いことだけじゃないよね、きっと。
人間関係が潔癖になってきている今、この記事を読んでそんなことを思ったのでした。
久しぶり執筆のおとも。良いアルバム!
それではまた~