夕焼けとさくらんぼと味噌ラーメンと

2021.12.08

もう師走かい!!!

 

秋をすっ飛ばして気付いたら冬。空はどんよりだけど、窓を閉め切って犬とごろごろして、お昼にはIN THE SOOPを見ながらカップラーメンを食べ、キースジャレットを流しながらこれを書いている。そして今日は散歩以外何の外出の予定もない!あーーーーーーーしあわせーーーー!!!!

f:id:mondai-girl:20211208154300j:plain

 

朝、今日は何をしようと思った時に、自然と一番最初に思い浮かんでくる選択肢が今はもう必要ない、という事実に気付く一瞬。寂しさできゅうっとなる。

私はあくまで孫という立場だったけど、それでもあの10年以上にわたる日々は私の日常の多大なウエイトを占めていた。

週に約1度は顔を見せに行くこと。同じ市内に住んでいるとはいえ、その間に大学を卒業し、正社員として働き(そして辞めたけど)、結婚をしたりしながらも、頭の片隅にその時間のことを置いて日常を組み立てること。

もちろん誰に強要されたわけでもないし、むしろ少し無理をして行ったりすると「無理しないでいいのに~」と言われたし、実際他の都合との兼ね合いでできない日もあった。それでも続けてきたのは、祖父母に喜んでほしいということもあったけれど、やはり母が心配だったからだった。

f:id:mondai-girl:20211208154609j:plain

自分の両親の介護をすること。命と向き合い続けるのは例えそれが他人だとしても厳しいことなのに、親だったらなおさらだ。怖いこと、不安なこと、寂しいこと、きっと私が想像出来うる何倍も、いろんな想いがあったよね。

母は真っ直ぐに祖父母のことを見つめ続けていたけど、私(や多分父も、妹は半々ぐらいかな?)はどちらかというと母のことを見つめていたと思う。母の不安を冬の寒い車内で何十分も聞いたこともあったし(最初は聞くということの大事さが分からなくて、マジレスして喧嘩っぽくなっちゃうことも何度もあった)、祖父母に会いに行ったはずが結局ほぼ母と話しただけで帰ったこともあったし、写真をたくさん撮っておいたり、母自身の食事や水分摂取を促したり、母が怪我をした時はひとりで祖父母の様子を見に行って大丈夫そうだったと報告したり。とにかく、自分にできる限りで母の負担を軽くするというのが私の目的だった(もちろん直接的な介護に関われればもっと良かったかもしれないけど、それは怖くてできなかった…というのもある…)。

f:id:mondai-girl:20211208154705j:plain

だからおばあちゃんを見送った時、そしておじいちゃんを見送る時、寂しさや悲しさより正直安堵感の方が大きかった。誰も欠けることなく無事にふたりを見送れたこと、本当に本当に良かったと思った。だって、介護することでお母さんが心身を壊すなんてことになったら、それこそおじいちゃんおばあちゃんの望むことじゃないと思うし。ギリギリのラインで、全員が全員できることをやって、結果無事に見送ることができたと思ったら、ホッとするしかなかった。

(その後、そのことを母と妹と話し、めちゃくちゃ泣いた。話しながら、この10年以上、最前線にいるお母さんの頑張りを見ながら支えながら、家族みんなで一丸となって走り続けてきたことを実感したら何か青春みたいで泣けた。。本当にみんな、よく頑張ったよね。。)

 

そしてそれから、ようやくおじいちゃんがいなくなってしまったことの寂しさが湧き上がってきた。

落ち着いてて優しくてかっこよくて、手先が器用で料理もできるおじいちゃん。他の人から見れば、100歳超えにして身の回りのことは基本自分でできてお正月には飾り包丁を入れたこんにゃく入りのお煮しめを作れて政治の話から時事ニュースのことまでしっかり意見交換し合えるおじいちゃんは奇跡のような存在だったかもしれないけど、家族から見るとその姿は当たり前で、だから亡くなってしまってから初めて、あぁそうだよね、そういう歳だったよねと思った。

おばあちゃんの介護が必要になってから、老々介護と言うにはあまりに老すぎる年齢にも関わらず、おじいちゃんは元気でいてくれるだけでなくずっと一番の介護者でいてくれて、もう私からすると見守るべき対象というよりは戦友のような感覚だったんだよね。だから純粋に寂しくて、心に穴が開いたような感覚ってこういうことなんだなぁと感じている。

おばあちゃんの介護が始まって頻繁に家に顔を出すようになってから、おじいちゃんとはいろいろな話をした。上に書いたような政治やニュースの話もそうだし、おじいちゃんの若い頃の話や、おばあちゃんとの暮らしの話、そして戦争の話も。

20代の頃に戦争に行き、戦地でマラリアにかかって生死の境をさまよったこと。終戦の知らせはハルマヒラ(インドネシア)で聞き、米軍の船で帰国したこと。故郷に帰った後仕事を求め上京し(その頃の列車は全席早い者勝ちなので前日から並んで席を取ったらしい…)、最初は家も借りられず間借りをして暮らし、知人の紹介でおばあちゃんと出会い結婚しやっと6畳のワンルームを借りられたことなど…本当、人生波乱万丈すぎて圧倒される。102年生きるってすっごいな。何かもう、すごいしかない。。

葬儀に来てくれたおじいちゃんの親戚が、おじいちゃんの思い出で一番印象に残っているのは、戦争が終わり玄関を開けたらボロボロの軍服を着たおじいちゃんが立っていて「ただいま帰りました」と敬礼をした姿だったと教えてくれて、鳥肌が立った。映画じゃんね。そしてそれを映画じゃんと思える現代、すっごい幸せかよ。

葬儀場の待合室におじいちゃんの99~102歳の各歳を祝った写真を掲示していたんだけど、その親戚の方はそれを見て、幸せだねぇよかったねぇと泣かれていた。その姿に、胸がいっぱいになった。

f:id:mondai-girl:20211208154916j:plain

 

おじいちゃんは、やるべきことをやり、日常をコツコツ積み上げていくことが大事だと言っていた。おばあちゃんとは喧嘩したことがないとも言っていた。一緒に暮らしてるんだから、喧嘩なんてしたってつまらんだろと。そうですね、勉強になります…。

あと100歳になった時、役所から記念品をもらえるのだけれど、その時ぽろりと「お母さん(おばあちゃんのこと)のおかげだな」と呟いていたのも衝撃的すぎた。そんなこと、誰に聞かせるでもなく素で言える人っているかね…。あーもう本当人間ができていてすごい。何なんだ。立派か!

 

こうして振り返ってみると、おじいちゃんおばあちゃんと過ごした日々、すごく楽しかったな。写真を見返していて、おじいちゃんおばあちゃんだけでなく家族みんなが心から笑っている写真ばかりで、こんなかけがえのない思い出ってないよね。

介護ができる人ばかりじゃない、むしろできない状況の人が一般的で介護できること自体恵まれているのかもしれないけど、でも介護している時間っていうのは絶対に無駄な時間じゃなくてかけがえのない時間だってことを強く実感した。これは介護しないことを悪とする意図はないし、じゃあ私も親の介護が必要になった時できるのか、と問われれば正直分からないとしか言えないけど…でも確実に言えるのは、お母さんをはじめ、私たちの過ごしたこの10数年は、かけがえのない大切な時間だったってこと。

f:id:mondai-girl:20211208155027j:plain

 

お母さん、今まで本当にお疲れさま。これからは少しゆったりして、たくさん遊びに行ったりもしようね。楽しいことたくさんしよう!

おじいちゃん、こちらのことは心配しないでおばあちゃんと仲良く穏やかに暮らしてね。美味しいものたくさん食べてね。またねー!!!

スポンサーリンク